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美しき勘ちがい

自分で「旅の本棚」をつくっている。
海外旅行に行くと、帰ってきてから猛然とその国のことをもっと知りたくなるので、本が増えていき、ひとつ、コーナーができてしまった。
多いのは、香港、ドイツ、中欧である。

その中に、山口文憲選『香港読本』(福武文庫)という本がある。香港についての文章を硬軟とりまぜて収めていて、内容が濃い。
沢木耕太郎氏の『深夜特急』からは、香港紀行の一部が「黄金宮殿」として収録されている。
読んでみると、旅の流儀がかっこいいし、硬質な感じの文章も、うまいとしか言い様がない。

氏の泊まっていたのは、連れ込み旅館と化しているゲストハウスで、その名を「ゴールデン・パレス・ゲストハウス」という(『深夜特急』の第1便の巻全体のタイトル「黄金宮殿」は、これに由来する。日本語に訳しただけなのに、なんとも恰好いいじゃないか)。
そこに頻繁に出入りしていた女性のひとり麗儀が、ある日、氏の部屋を訪ねてきた。

〈何の用事かと訊ねても、言葉が通じないため要領を得ない。立って顔を見合わせていてもはじまらないので、部屋の中に招き入れた。〉

そして、麗儀は、氏に、1から10までの10個の数字を2回書かせた。その筆跡から性格を読み取ろうとする、占いらしかった。

〈麗儀はその二列の数字をしばらく眺めていたが、やがて別の紙にこう書きつけた。

 有恒心
 胸襟広大

・・・なるほど私にも理解しやすい占いだった。有恒心、胸襟広大などと書かれると、そうだ俺には恒心があって胸襟も広大だったのだ、そうなのだ、と調子よく納得したい気分になった。麗儀はボールペンを持ったまましばらく考えていたが、やがてその横に二つの文字を書き加えた。

 孤寒

 それを目にした瞬間、ドキッとした。恐らく、日本にそのような言葉はないが、彼女が表現しようとしたものは明確に伝わってきた。孤寒。その優雅な言い廻しと裏腹の冷えびえとした文字の姿の中に、本当に私の性格とその未来が隠されているのではないかと思えてきた。〉

旅先で、言葉が通じない女性に、自分の性格と未来を言い当てられる。ロマンチックなこと、この上ない。
しかし、もしかしたら、ちがうのではないか。

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同じく旅の本棚の『旅の指さし会話帳 3 香港[第二版]』を見ていたとき、「孤寒」という語と出合った。
なんと「ケチ」という意味である(写真)。
これでは、「優雅な言い廻しと裏腹の冷えびえとした」ーこれはまさに沢木氏の文章の魅力でもあるーがまったく成り立たなくなってしまう。

わたしは、広東語は、あいさつ程度しか知らない。だから、上記の推論は、まったく的外れかも、しれない。あるいは、沢木氏はプロの物書きとして、すべて承知のうえで、「孤寒」という漢字が日本人読者に与えるイメージだけを計算して、書いたかもしれないとすら思ったりもするけど、もし、まったくの「美しき勘ちがい」だとしたら・・・ちょっとオモシロイ。

ワルのりして、もうすこし深読みしてみる。
麗儀が氏の部屋から出ていくとき、「ハンサム」とつぶやいたように聞こえた気がした、という。
それを香港で知りあった日本人に話したところ、「『ハムサン(助平)』と言われたのではないか」という。

〈だが、一指も触れなかった女にどうして助平と罵られなければいけないのだと言おうとして、そうか、だから助平なのか、となぜか深く納得してしまった。〉

この“一指も触れたことのない女に、深く思われる”というのも、男性にとってはうれしい類いのエピソードみたいだ。でも、これもちがうんじゃないか? 『旅の指さし会話帳』を熟読して、「ハンサム」と聞こえそうな言葉をさがしてみた。
候補は、ふたつ。
ひとつは、「ハイ ガム シン」(じゃあね)
もうひとつは、「ロン サム」(洗濯物を干す)
個人的には、後者が気に入っている。
自分の「職場」に泊まっている外国人の部屋を突然訪れ、頼まれもしないのに占って「ケチ」と評した揚げ句に、「洗濯物でも干そうっと」と言いながら部屋を出ていく娼婦。
・・・沢木的世界とはまったくちがうが。

(あくまで、『旅の指さし会話帳』から仮説を立ててみただけで、沢木氏の『深夜特急』の文学的価値をなんら貶めようとするものではありません。)

【追記】
このブログを読んでくれた友人が、沢木氏が「孤寒」の意味について指摘を受け、その旨が『象が空を』(文藝春秋)に書かれている、と教えてくれました。(2004年5月5日)
by boyo1967 | 2004-04-30 16:41 | | Comments(0)