【ことば その1】
けさの「朝日新聞」、益田ミリさんの「オトナになった女子たちへ」。
習い事について。
オトナになって習い始めて10年になるピアノをしばらく休むことにしたとのことで、
「じゃあ、なんのために10年も?
やってみたかったから始めた。それでよいではないか」。
そうか、それでいいのか。
実はわたしも、最近、チェコ語に対して熱意が湧かない。
勉強会の世話をすることが、かろうじて、わたしをチェコ語につなぎ止めている。
そんな状態であることに内心、罪悪感めいたものがあったが、そうか、それでいいのか。

【ことば その2】
あるヨガインストラクターさんが、ブログで『日本の腰痛 誤診確率80%』(北原雅樹著、集英社インターナショナル)を紹介していて、そのなかにあった
「わたし〔ヨガインストラクターさん〕は怒りの根源は「さみしみ(淋しみ)」と思っているのだけど」。
あ、そうか。
そうかもしれないな。特定の人間関係から排除されたと感じたときにおぼえる怒りなど、まさにそうだ。

続いて、
「そして〔腰痛が〕治るか治らないかの鍵について、それ! と思うことをきっぱり書かれていました。生活習慣の改善の中に、以下も同時にあると。

 1.やりたいことがあるか
 2.将来を考えることができるか」
おお〜耳が痛い。最近、まさに、40歳ぐらいまでは意識せずともそれが湧き上がってきて、生きる駆動力となっていたと、今にしてわかるけど、50を越えて、その問いに答えられるか。

さらに続いて、一緒にヨガをする同世代の人に話が及び、
「どうせ死ぬしというモードでふて腐れないことは、すごく大切なことだと思います。だってみんな死ぬし。だったらふて腐れていない人と一緒に活動したい」。
そうだよな〜ふて腐れてる人(意識的であれ、無意識的であれ)との仕事ほど、気持ちが萎えるものはない。
そして文章は前後するけど、
「「もうわたしは老い先短いから」なんて言いながら不摂生を肯定するなんて…ことはできない」。

【ことば その3】
参考にしている文鳥サイトのブログから。水泳のトップアスリートの闘病に触れてから、
「〔文鳥は〕病と闘ってなどいない。なぜなら、病など理解しないからである。彼らは、体調不良でも生きようと努力するのみで、まさに懸命に頑張り続ける。それは、やはり生きものとして尊敬に値する姿だと、毎度、感じ入ってしまう」。
ほんと、ただ生きている姿は、それだけで打たれる。

【ミシェル・ルグラン追悼】
先月26日、「シェルブールの雨傘」の音楽などで知られるフランスの作曲家、ミシェル・ルグランが86歳で亡くなった。
わたしは、何度も書いている気がするけど、『シェルブール…』より『ロシュフォールの恋人たち』が断然、好き。
あと、2014年に東京国立近代美術館フィルムセンターで開かれた「ジャック・ドゥミ」展で流れていたルグランの何かの曲が気に入ったのだけど、それが何だったか、残念ながらわからない。


◆2019年2月17日(日)
兵庫芸術文化センター管弦楽団第112回定期演奏会
大澤壽人:交響組曲「路地よりの断章」
 第1曲 インヴェンション 第2曲 母の子守歌
 第3曲 だるま      第4曲 夜想曲
 第5曲 かくれんぼ    第6曲 銅鑼
 第7曲 陽気な小径

ラウタヴァーラ:ヴァイオリンと管弦楽のための「ファンタジア」

ラヴェル:ツィガーヌ

リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」
 第1曲 海とシンドバッドの船
 第2曲 カレンダー王子の物語
 第3曲 若い王子と王女
 第4曲 バグダッドの祭、海、船は青銅の騎士のある岩で難破、終曲

指揮:岩村 力
ヴァイオリン:アン・アキコ・マイヤース
コンサートマスター:四方恭子

1曲目は、神戸生まれの作曲家・大澤壽人(おおさわ・ひさと/1906〜53)の交響組曲。
「ノーベル賞の授賞式で曲が流された…」と一瞬思ったけど、それは、1949年、湯川秀樹のノーベル賞授賞式で、貴志康一(1909〜37)の作曲した曲が流されたエピソードとの混同であった。
日本のわらべ歌のメロディが生かされた曲。手がたくまとめた、と好印象を受けた。

2曲目、ソリストのマイヤース登場。
作曲者のエイノユハニ・ラウタヴァーラ(1928〜2016)は現代フィンランドの代表的作曲家で、その作品《カントゥス・アルクティクス》を聞いて感銘を受けたマイヤースが、2014年にラウタヴァーラに委嘱してできたのが、この「ヴァイオリンと管弦楽のための『ファンタジア』」であり、ラウタヴァーラの遺作になったという。
出だしこそ現代音楽らしい不思議な和音だったけど、独奏ヴァイオリンが始まってからは、美しいメロディの、すてきな曲であった。

3曲目、パンフレットの文言を借りれば「ラヴェル流ハンガリー狂詩曲」。
いかにもロマ的に細かく動く音階を、達者に弾きこなしていた。
ラヴェルは1875年生まれ、1937年没。

マイヤースのアンコールは「おばあちゃんが一番好きだった」という「荒城の月」(滝廉太郎/1879〜1903)。
前半のプログラムは、滝を除いて、(おもに)20世紀の作曲家ということになった。岩村が、1曲目と2曲目、それぞれ舞台袖へ引く際に、自分の楽譜を指して、作曲家への敬意を示していたのが印象的だった。

後半の「シェエラザード」、生で一度聴いてみたかった。
指揮は相変わらず手がたく、数日前に聴いたクルレンツィス張りにもっとアゴーギクというか、ドライブ感があればな、とも思うけど、持ち味はそれぞれだからね。
ソロをとる四方恭子が、おそろしくうまい。これだけで、今日来た甲斐がある(まぁ、シェエラザードの主題で聴衆を魅了できればこそ、女性不信に陥ったシャフリアール王がシェエラザードに魅了されてついには妻としてめとるという物語に説得力が生まれる)。
フルート、オーボエ、クラリネットもよかった。
ホルンは、90点のところあり、60点のところあり、音程を保つのが難しい楽器だというが、がんばっていた。
ティンパニは、たぶんゲストプレイヤーではなくオケの団員だったと思うけど、非常によかったと思う。

「シェエラザード」というと、ソチ五輪のフィギュアスケート・アイスダンスで金を取った、アメリカのデイヴィス&ホワイト組のフリープログラムなどで使われた楽曲。
4つの楽章の、どれを聴いていても聞き覚えがあり、4分の長さに、なんとうまく切ってつなげたものかと、あらためて感心した。
プログラムの解説を読んで、物語の詳細を初めて詳しく知った。

◆2019年2月14日(木)
テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ(フェスティバルホール)
チャイコフスキー・プログラム
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
ヴァイオリン:パトリツィア・コパチンスカヤ

交響曲第6番 ロ短調 op.74「悲愴」

朝日新聞夕刊であまりに絶賛されるので、つい聴きたくなり、平日のコンサートだったけど、買ってしまった。
予習として、録画していたなかに、ザルツブルク音楽祭でのモーツァルト「レクイエム」があったので聴いてみたら、アクセントの置き方やテンポなど、たしかに変わった感じ。

当日、フェスティバルホールへのぼっていくエスカレーターで、男性二人連れ「アンコールの『クロイツェル・ソナタ』がものすごい速弾きでもったいないぐらいだった! 今日も何が起こるか楽しみで…」という高揚した声が聞こえてきた。
ヴァイオリン独奏のパトリツィア・コパチンスカヤのファンも、今日はかなり多そうだ。
…という予感は、ヴァイオリン協奏曲が終わるやいなやの、おじさんたちの争うような雨あられの「ブラボー!」で、裏づけられた。
中年から初老にかけてのおじさん率、高いもんなー。
ヴァイオリンを習っていると思しき子どもの聴衆もいたけど、登場・退場のおりには、機関銃を掲げる勝利軍の兵士のようにヴァイオリンを片手に高々と掲げ、演奏においては、素足で踊るかのごとく格闘するかのごとくものすごい音を出すコパチンスカヤに、びっくりしたのではなかろうか。
以前に聴いた、庄司紗矢香とゲルギエフのヴァイオリン協奏曲とは、まったく違う曲だった。
♪チャッチャーチャラララチャーララー の爽快感は、ゲルギエフ&マリインスキーに軍配をあげるが、これはこれで、おもしろくスリリングな演奏だった。

コパチンスカヤのアンコールは、「Do you like comtempolaly music?」と聴衆に問いかけてからの、藤倉大さんの曲。
なんとも変わった曲だったなー(「クズメッチェ」というブルガリアのダンスがベースになった曲の由。藤倉大氏ご本人と思われるツイッターによると「恐らく日本初演」とのこと)。
チャイコフスキー弾いて、ああいう現代曲を弾いて、わたしの耳には「変わった」としか聞こえないけど、コパチンスカヤにはどんなふうに聞こえているんだろう、と、音楽家というものが本当にうらやましくなった。

「悲愴」は、第4楽章の最後の、不思議なリズムとうねりが圧巻(そうそう、1曲目もそうだったけど、魂を撃ちぬくようなすさまじいティンパニの音にしびれた)。
最後、音が消えてから、クルレンツィスの腕がおりるまでの時間のなんと長かったこと。あの大阪の聴衆が、フライング拍手もフライングブラボーもなしに、しんとして、ただ腕がおりるのを待ってるんだもの、わたしも気が遠くなりそうな数十秒だった。
しかし、「悲愴」もヘンな曲、どう考えても、勇壮なコーダの第3楽章を最後にもってきても構わないだろうに、そこから第4楽章に続くんだから(パンフレットによると、誕生から死までの人間のさま(幼年→青年→壮年→老年)を紡いでいると解釈する音楽家もいる、とのこと。なるほど)。

これもパンフレットによると、邦訳「悲愴」は誤りで、正しくは「感動的」とのこと。
こういうのは、馴染んだタイトルは手放しがたいのはわかるけど、改めていってもいいんじゃないかなぁ。
あの甘美な「くるみ割り人形」と同時期にこれを作曲していたと思われるけど、チャイコフスキー、やはりすごい。

アンコールはなし。東京公演でも、「悲愴」のあとはアンコールはなかったらしい。

(晩ごはんの予約の都合があったので、終演時間を2度、フェスティバルホールに尋ねたが、1週間前になっても、「主催のキョードーから連絡が来ていないのでわかりません」とのこと。
キョードーに聞いてくれというので、有料の電話サービスに電話したが、やはりわからないという。いい加減な。何も悪くないオペレーターさんに愚痴を言うのは気が引けたが、ひと言いわずにはおれなかった。
ふと思いつき、同じプログラム(と誤解していた)のすみだトリフォニーホールに電話したら、すみやかに教えてくれた。
これは、東京の主催のカジモトと、大阪の主催のキョードーの差だろう。関西のバレエ公演でも、評判があまりよろしくないもの。)

晩ごはんはバスク料理の「アマ・ルール」、21時半からでも入店できるうえに、どの皿も満足の5000円のコース(ペアリングで頼んだワイン、前に来店したときは、ソムリエさんがあらかじめ好みを聞いてくれて、どれも料理に合わせておもしろいものを出してくれたけど…この日は違うソムリエさんで、バレンタインデーだったこともあり接客疲れしてるのかしら?という印象だった)。

◆2019年2月3日(日)
英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ「くるみ割り人形」(TOHOシネマズ 西宮OS)
(続きます。)

(チェコ語訳された江戸川乱歩「心理試験」(1925)の日本語試訳)

そうであるから、老婦人を殺すことは危険ではないというのが、フキヤが最終的に下した結論であり、数カ月もかけて、どうしたら我が犯罪をできるだけ首尾よく実行できるか、ひたすら考え抜いた。
その長い期間、フキヤの考えはどんな方向に進んでいったか?
いまお話しして事件を先取りすることはすまい、というのは、全容について読者諸君は追い追い知ることになるのだから。
少しだけ明かしておくと、フキヤは、微に入り細に渡るまですべて考慮した、徹底的な分析に基づいて、絶対に安全な殺人の方法を考え出したのだ。それは普通の人間なら決して思いつかないようなものだった。
自分の計画において、フキヤは何ひとつなおざりにしなかった。いかなる細部も、いかなる痕跡も。

今や残るは、好機を待つことだけであった。
その好機は、意外にも早くやって来た。
ある日、サイトウが大学の用事で下宿をあけ、女中も何かを片付けるために出かけて、二人とも夜まで確実に帰宅しないことを、フキヤははっきり知ったのだ。
フキヤが準備の最後の仕上げをしたのは、そのわずか二日前のことだった。
その準備の最後の仕上げというのは、これだけは読者諸君にあらかじめ明かしておかねばならない。
フキヤが、カネの隠し場所を聞いてからもう丸半年が経っていた。だから、老婦人がカネを隠している場所が変わっていないことを確かめておく必要があったのである。
そのために殺人の二日前、フキヤはサイトウを訪ねた。それから初めて、挨拶すべく居間に顔を出し、老婦人と会話を交わした。
会話のすべては、ただ一点に通じていた。
フキヤは幾度かこんな話題を振った。老婦人の財産のこと、そのカネをどこかに隠しているという噂が広がっているということ。
フキヤは「隠す」という言葉を口にするたび、老婦人がどちらを見るか、つねに注意深く目で追った。
予想通り、老婦人の視線はつねに、無意識のうちに床の間の植木鉢のほうへと動いた。
フキヤはこの策を何度か繰り返し、ついに、隠し場所は同じ場所のままであるという確証を得た。

        2
ついに、長いあいだ待っていた日がやって来た。
フキヤは実行場所へと出発した。
制服を着て学帽をかぶり、とんびコートをまとった。
手には、市販の手袋をはめた。

【江戸川乱歩原文】
では、老婆をやっつけるとして、それには果して危険がないか。この問題にぶッつかってから、蕗屋は数ヶ月の間考え通した。その長い間に、彼がどんな風に考を育てて行ったか。それは物語が進むに随って、読者に分ることだから、ここに省くが、兎も角、彼は、到底普通人の考え及ぶことも出来ない程、微に入いり細を穿った分析並に綜合の結果、塵一筋の手抜かりもない、絶対に安全な方法を考え出したのだ。
 今はただ、時機の来るのを待つばかりだった。が、それは案外早く来た。ある日、斎藤は学校関係のことで、女中は使に出されて、二人共夕方まで決して帰宅しないことが確められた。それは丁度蕗屋が最後の準備行為を終った日から二日目だった。その最後の準備行為というのは(これ丈けは前以て説明して置く必要がある)嘗つて斎藤に例の隠し場所を聞いてから、もう半年も経過した今日、それがまだ当時のままであるかどうかを確める為の或る行為だった。彼はその日(即ち老婆殺しの二日前)斎藤を訪ねた序(ついで)に、初めて老婆の部屋である奥座敷に入って、彼女と色々世間話を取交した。彼はその世間話を徐々に一つの方向へ落して行った。そして、屡々(しばしば)老婆の財産のこと、それを彼女がどこかへ隠しているという噂のあることなぞ口にした。彼は「隠す」という言葉の出る毎に、それとなく老婆の眼を注意した。すると、彼女の眼は、彼の予期した通り、その都度、床の間の植木鉢(もうその時は紅葉ではなく、松に植えかえてあったけれど)にそっと注がれるのだ。蕗屋はそれを数回繰返して、最早や少しも疑う余地のないことを確めることが出来た。

 さて、愈々(いよいよ)当日である。彼は大学の正服正帽の上に学生マントを着用し、ありふれた手袋をはめて目的の場所に向った。

※床の間の植木鉢に植えてあるものは、「青空文庫」版では最初は紅葉でその後松に植え替えだが、現行の文庫版では一貫して松であるとのこと。

(終わってから「エルナ・アドリアーン」へ急いで行き、2月限定のビールをいただいた。)

ボリショイ・バレエ in シネマ「くるみ割り人形」を神戸国際松竹に観に行く。
ボリショイ・バレエ in シネマの「くるみ割り人形」は昨年までは数年にわたり2014年12月公演のものが上映されていたが、今年は新たに2018年12月23日モスクワ公演のものが上映されるということで、観に行った。

すばらしかった!

バレエ「くるみ割り人形」には、二つの系列がある。一つは、少女クララがお菓子の国を訪れてこんぺいとうの精とお菓子の国の王子の踊るグラン・パ・ド・ドゥを見るもの、もう一つは少女クララがお菓子(または人形)の国でプリンセスとなって、クララ自身が王子とグラン・パ・ド・ドゥを踊るもの。
今までは、去年シネマで見た、英国ロイヤルバレエのピーター・ライト版がすばらしかったので、前者のストーリーのほうがいいかなと思っていたけど、ボリショイ・バレエは後者のストーリー。
くるみ割り人形で王子のセミョーン・チュージンがジャンプに回転にサポートに演技に、すべてすばらしかったことと、マルガリータ・シュライナーも可憐ながらテクニックもしっかりしていて、また、雪の国の踊りも各国の踊りもものすごいハイレベルで、まさにめくるめくような感じだった(例によって、翌日まで頭のなかに余韻が残り、ボーッとしてしまった)。
オケも、とてもよかった。序曲はかなり速いテンポなど、クリニチェフがいい感じでテンポを揺らしていた。
ノヴィコワの説明は、幕があがるまでに終わるのか、勝手にハラハラした。

美術も、まったくのリアリズムでもなく、もちろん何か柱や階段を置いていろいろな物に見立てるというわけでもなく、ロシアの絵本から抜け出てきたような、「あの世界に入りたい」と願うような、そんな夢あふれる、美しい舞台装置だった。

すぐれた男性ダンサーがたくさん所属するボリショイ・バレエらしく、ドロッセルマイヤーを演じたデニス・サーヴィンの、少し癖あるハンサムぶりとテクニックにも驚かされた(照明の効果もあるけど、まるで宙に浮いているように駆けるシーンがあった)。
資料を見返してみると、2017年の来日時、フェスティバルホールで「ジゼル」を見たとき、ハンスを演じていた(そういえば、ボリショイのハンスは、出番が多くないのにやたらにハンサムでうまいと思ったのだった)。

そして、初めてボリショイ・バレエを見て衝撃を受けた2014年の来日時の「ラ・バヤデール」では、ソロルを演じていたのが、なんとセミョーン・チュージンだった。
もちろん、うまいと思ったけど、そのときに戻れるなら、「しっかり見ておきなさい」と自分を叱責したい(そして、そのときデニス・ロヂキンが奴隷を演じていたのだった…ボリショイ・バレエすごいよ…まぁこのときは、別の日の「ラ・バヤデール」は、ザハロワ&ラントラートフ&アレクサンドロワだから、2017年よりはずいぶん豪華キャストであった)。

前にシネマで、ザハロワとポルーニンの「ジゼル」を観たけど、そのときもチュージンはハンスを演じている。
(ボリショイ・バレエではキャラクターダンサーの位置づけなのかな。身長は、チュージンよりは確かに低いかな。)

音楽:ピョートル・チャイコフスキー
振付:ユーリー・グリゴローヴィチ
音楽指揮:パヴェル・クリニチェフ
司会:カテリーナ・ノヴィコワ

キャスト
マリー/マルガリータ・シュライナー
くるみ割り人形/セミョーン・チュージン
ドロッセルマイヤー/デニス・サーヴィン
ネズミの王/アレクサンドル・ヴォドペトフ
ボリショイ・コール・ドバレエ

監督 イザベル・ジュリアン

晩ごはんは、魚料理の「咲咲(さくさく)」

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仕事で郵便局に行ったついでに、お年玉年賀はがきの切手シートを引き換えてもらった。
毎年、干支の動物柄なのに、今年はなぜ招き猫?
でも、数百円分とはいえ、これが当たるとうれしいので、いいのだけど。

イディッシュ・ラプソディー
ベルリオーズ:幻想交響曲

指揮・芸術監督:佐渡裕
ゲスト:シルバ・オクテット&イザベル・ジョルジュ(歌)

パリ管弦楽団のメンバーを中心に結成されたイディッシュ音楽プレーヤー「シルバ・オクテット」と、パリでミュージカル俳優として活躍するイザベル・ジョルジュを迎えての「イディッシュ・ラプソディー」、冒頭のクラリネット(確か…)から度肝を抜かれ、イザベル・ジョルジュが登場してからの歌にはもっと度肝を抜かれ、約50分の結構な長丁場だったが、まったく退屈せずに聴いた(いわゆる「関西人的」物言いをすると、この回だけで、定演会員になった元はとれたと思った)。
いつも、演奏が始まるとすぐに船を漕ぎ始める両隣のお客さんも、さすがに寝ていなかった。
佐渡さんのゲスト人選のセンス、いつもすごいなぁと思う。

「幻想交響曲」は、緩急・音の大小のつけ方がやり過ぎで、ラストなどちょっと破綻しているように思った…10月・11月の定演はよかったのだけど。
考えてみると、佐渡さんが振った9月と今月がイマイチ、10月・11月はまとまっていてよかったと感じた。
もしかしたら、客演指揮者は、そのオケの実力の範囲内で無理なくいい演奏をさせ、佐渡さんは自分のオケだから、しかも若手のオケだから、自分の求める音楽をとにかく演奏させ、多少の破綻は構わない、と考えているのかもしれないなと感じた。

今日は起きていた左隣のおじさんは、起きているあいだは自己流の指揮をしているので、とてもいやだった。

アンコール演奏曲目
前半アンコール曲
イディッシュ音楽
1 ドナドナ(ショロム・セクンダ作曲)
2 アモル・イズ・ゲヴェン・ア・マイセ Amol iz geven a mayse(伝承音楽)

後半アンコール曲
ベルリオーズ:ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)

「ドナドナ」ってイディッシュ音楽だったのか!

晩ごはんは、久しぶりの「Takasaki」。いつもながら、おいしかった。お刺身、絶品。締めの土鍋ご飯も。ごちそうさまでした。

ロイヤル・バレエ「ラ・バヤデール」
【振付】マリウス・プティパ
【追加振付】ナタリア・マカロワ
【音楽】レオン・ミンクス
【指揮】ボリス・グルージン
【出演】ニキヤ(神殿の舞姫):マリアネラ・ヌニェス
 ソロル(戦士):ワディム・ムンタギロフ
 ガムザッティ(ラジャの娘):ナタリア・オシポワ
 ハイ・ブラーミン(大僧正):ギャリー・エイヴィス
 マグダヴェーヤ(苦行僧の長):アクリ瑠嘉
 アヤ(ガムザッティの召使):クリステン・マクナリー
 ソロルの友人:ニコル・エドモンズ

実は…ヌニェスのよさというのが、わたしにはよくわからない(あんなに二の腕の筋肉ムキムキで腹筋も割れているなら、花かご韻に毒蛇が仕込まれていても、見つけてムンズとつかんで投げ捨てそう、と思ってしまう)。
オシポワのガムザッティは、単にかたき役というのではなく、切なさがよく出ていて、よかった。
ムンタギロフもよかった…ニキヤとガムザッティのあいだでふらふらする駄目加減さの演技も含め。
ブロンズアイドルはアレクサンダー・キャンベル。比較的カメラが近寄っていたせいか、驚異的な跳躍には見えなかった(が、実際はきっととんでもなく跳んでいたと思う)。

家に帰って、「ロイヤル・バレエ ザ・コレクション」の「ラ・バヤデール」も少し見たが、大僧正も苦行僧の顔の黒塗りも、シネマでは、これより薄くなっていたと思う。
バレエの世界にも、ポリティカル・コレクトネスか…イギリスのバレエ団ゆえ、その流れは無視できないのかな。なんていうかなぁ、「様式美」として許されるようにも思うのだが。もし「中国の踊り」的な踊りがNGとされると、いろいろなレパートリーがつまらなくなってしまうと思う。

ロイヤル・オペラのシネマ『ワルキューレ』を観に行った。
ロイヤル・オペラの実力分までは期待して、それ以上…つまり、「おもしろい」とか「感動」とかは期待していなかった。まぁ、いいプロダクションになるだろうオペラハウスの有名作品だから見ておこう、という感じ。
おととし観に行った、びわ湖ホールプロデュースの、いわゆる「びわ湖リング」の初年度『ラインの黄金』が、わたしにはイマイチだったから。神とか巨人とか莫迦みたい、ラストのヴァルハラ城への入城シーンは内心笑いそうになった。

が、ちょっとした衝撃的な観劇体験となった。
「ワグネリアン」と呼ばれる人たちのことがわからなかった。もちろんすごい作曲家とは思うけど、ルートヴィヒ王やヒトラーがのめりこんだのは、その稚気ゆえではないかと。
が、あの官能に直接流れこんでくるような管弦楽の音、神と半神と人間との、(矛盾しているけど)人間くさいドラマ。
モーツァルトの歌劇の音も官能に流れこんでくるようではあるけど、劇のラストには一種の大団円があって、鑑賞者を現実世界に引き戻してくれる。
けど、この楽劇は、劇が終わっても、持って行かれた魂をまだそちらの世界に置いておきたい、そんなことを思わせる。

舞台美術・演出がおもしろくて、人間の家の室内も、神の世界も、同じテーブルと椅子、ソファ、ガラスの破れた巨大な窓が使われる(不思議と違和感はない)。
第2幕、神の世界におけるソファがなぜか倒され、幕あいインタビューで「運命の赤い綱」と鑑賞者へのヒントが出されていた赤い綱をブリュンヒルデが手に取り、倒れたソファの脚にくくりつけると、いつの間にか、その綱を頼りに崖をのぼるようにして、双子にして夫婦のジークリンデとジークムントが割れ窓から入ってくる。見事な場面転換。
第3幕の、神々の長ヴォータンが娘ブリュンヒルデひ罰を与える場の舞台装置は、白い壁ひとつ、それが不思議と安っぽさも不自然さもない。
同じ第3幕冒頭の、有名な「ワルキューレの騎行」は、いったいどんな演出をするんだろう、と思ったら、なんと、馬の頭骨らしきものを両手に持ち黒いドレスに身を包んだワルキューレの戦乙女たちが、その白い壁の前で横一列に並んで、頭骨を上下させるだけ、なのに、ロイヤル管弦楽団が生み出す緊迫感ある音楽と、白い壁に移る乙女たちの巨大な影のおかげで、滑稽味などまったくなく、「やるなぁ」と思った。
そしてソファは、最後はそこでブリュンヒルデが眠った(ヴォータンが火の神ローグを召喚して、火が燃え上がる演出もお見事)。
ブリュンヒルデの神性を奪う額への口づけと、その前に交わした、男と女にしか見えない激情あふれる口づけの対比も、見事だと思った。

歌手の演技も、舞台俳優並み。
第1幕の、ジークリンデとジークムントの再会シーンは、最初のうち、正直、2人の体型が気になってしまったが、スチュアート・スケルトン演じるジークムントの、ものすごい
「ヴェーーーーーーーーーーーールゼ」
を聴いてからは、こんなすばらしい歌唱ができるなら、こんな体格でもしかたない、と思えた。

ブリュンヒルデのニーナ・シュテンメもすばらしかった。
こちらも最初は、娘というよりおばさんにしか見えない、と思ったが、話が進むうち、気高く勇敢で、そして優しいブリュンヒルデにしか見えなくなっていった。

幕前と幕あいの解説・インタビューが、バレエのときとは雰囲気が違うものの、やはりすばらしい。
日本のオペラ公演のパンフレットも、あれぐらいの内容を盛りこんでほしい(読んだところで理解が深まるわけでなく、結局、インターネットで検索することになる)。
たまたま来ていたという俳優さんのインタビューがおもしろかった(ヒトラーがワーグナー愛好・崇拝者だったことについて尋ねるインタビュアーもいいし、その答えもすばらしい。「自分の死後50年経ってヒトラーがその作品を愛したことは、ワーグナーにはどうしようもないことだが、ワーグナーのユダヤ嫌いに関係があったことでもあり、責任がないわけではない。芸術家で人格に問題のあった人は多い。しかし、醜い木に美しい花が咲くこともある(大意)」。イギリスの俳優って、知識に厚みがあると感嘆した)。
それと、このプロダクションに参加したコレペティトールもすばらしかった。ワーグナー作品へのあの深い理解があるコレペティトールとの練習の日々があってこそ、歌手たちもあの高みまでのぼることができたのだろう。

こんなことなら、びわ湖ホールの去年の『ワルキューレ』、観に行っておけばよかった。
演出がオーソドックスなので、もしかしたら、また内心笑うようなところもあったかもしれないけど、このプロダクションと比較できたし、日本では上演されることが少ない。残念なことをした(で、今年3月の『ジークフリート』のチケットを見てみたら、完売のようだ。これも残念)。

映画館は、やはりワーグナー好きのおじ(い)さんというのは多いのだろう、バレエのシネマのときにはほとんどいない60・70代の男性が多かった(おじ(い)さんって、どうして連続咳を大音声でするのかしらね。途中で小銭をチャリンチャリン床に落としている人もいた。うるさいよ)。

【演出】キース・ウォーナー
【指揮】アントニオ・パッパーノ
【出演】
 スチュアート・スケルトン(ジークムント)
 エミリー・マギー(ジークリンデ)
 ジョン・ランドグレン(ヴォータン)
 ニーナ・シュテンメ(ブリュンヒルデ)
 エイン・アンガー(フンディング)
 サラ・コノリー(フリッカ)

15時に始まって終わったのが20時過ぎ、芦屋の「様様」でごはん、その後「バー伊藤」。果物を使ったカクテル、おいしかった。
酒量を減らしたいという新年の誓いいずこ。

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アカネボケが、だんだん花開いてきた。
なんともやさしい、これが茜色。

(チェコ語訳された江戸川乱歩「心理試験」(1925)の日本語試訳)

フキヤは確かに、問題のカネがいかほどなのか正確なところは知らなかった。けれど、それとなく感じるさまざまなことから、殺人によって背負い込む危険を犯すだけのことは充分ある大金があると判断していた。
同時にフキヤは、取るに足りない額のカネのためとはいえ、罪のない人間を苦もなく殺すことを、ためらいはしないだろう。というのは、ほとんど文無しだったから。だから、他人の目から見れば大したことのない額かもしれないカネでも、フキヤを充分に満足させるだろう。
加えて、フキヤの目から見れば、盗むカネの多寡におもとして惹かれていたわけではなく、真犯人が決してバレない完璧な犯罪を実現するという渇望に惹かれているのだった。
その渇きを満たすためには、どんな犠牲も払うことも、厭いはしない。

一般的に、殺人はただの物盗りより何倍も危険だという意見が、支配的である。
しかしそれは、単なる錯覚にすぎない。
そもそも、殺人犯は大抵バレるという前提に基づいて行動するかぎりは、殺人を犯すことは、あらゆる悪事のなかで、疑いの余地なく最も危険ということになる。
が、真犯人が暴かれることの難しさによって見るならば、逆に物盗りのほうが、もちろん状況によるけれども、ずっと危険なのだ。というのは、物盗りは自分の痕跡を多く残してしまうものだから。
犯罪の証人をバラバラに切り刻むのは残忍なことだが、同時にそいつを黙らせる安全な方法でもある。
大昔から、名だたる犯罪者は皆、冷酷に、かつ、ためらうことなく人を殺してきた。だからこそ大抵、彼らは捕まらなかったのだ。
まさに、彼らの犯行が大胆で傲岸不遜だったおかげだ。

【江戸川乱歩原文】
老婆の金がどれ程あるかよく分らぬけれど、色々の点から考えて、殺人の危険を犯してまで執着する程大した金額だとは思われぬ。たかの知れた金の為に何の罪もない一人の人間を殺して了うというのは、余りに残酷過ぎはしないか。併し、仮令それが世間の標準から見ては大した金額でなくとも、貧乏な蕗屋には十分満足出来るのだ。のみならず、彼の考によれば、問題は金額の多少ではなくて、ただ犯罪の発覚を絶対に不可能ならしめることだった。その為には、どんな大きな犠牲を払っても、少しも差支ないのだ。
 殺人は、一見、単なる窃盗よりは幾層倍も危険な仕事の様に見える。だが、それは一種の錯覚に過ぎないのだ。成程、発覚することを予想してやる仕事なれば殺人はあらゆる犯罪の中で最も危険に相違ない。併し、若し犯罪の軽重よりも、発覚の難易を目安にして考えたならば、場合によっては(例えば蕗屋の場合の如きは)寧ろ窃盗の方が危い仕事なのだ。これに反して、悪事の発見者をバラして了う方法は、残酷な代りに心配がない。昔から、偉い悪人は、平気でズバリズバリと人殺しをやっている。彼等が却々(なかなか)つかまらぬのは、却ってこの大胆な殺人のお蔭なのではなかろうか。

※原文では「大した金額だとは思われぬ」が、チェコ語訳では「大した金額があると判断していた」となっている。

(終了後、「魚盛」阪急西宮ガーデンズ店で新年会。4,000円で、きちんと仕切られた個室で、よかった。)