神戸市教育委員会編『神戸の史跡』(神戸新聞出版センター、1975年)で知った、磨崖仏を見に行くことにした(姫路城の古いガイドブックを集めることに端を発し、最近、25〜40年前の、地域史の解説書やガイドブックを何冊か買い求めている。学校史や企業史もそういう印象があるけど、最初に出た本というのは、たいていきちんとしている)。
1975年当時は垂水区だけど、現在は神戸市西区押部谷(おしべだに)町木津にあり、最寄り駅は、神戸電鉄粟生(あお)線木津駅。
駅舎を出て、右側の階段をおり、そのままほぼ神鉄沿いに藍那(あいな)方面へ引き返す感じで歩くと、15分ほどで着く(帰りの電車で気づいたけど、電車の北側の車窓からも、その崖と、手前の池が見える。ただし磨崖仏は肉眼ではわからないだろう)。
意外な、小ささ(本やウェブ上の写真から、勝手に、バーミヤンの大仏とまではいかなくとも、もっと大きい物を想像していた)。
でも、その小さいながら静かな佇まいを拝見していると、その場にある説明の
「この街道を行き交う人の旅の安全を祈って刻んだ」
という思いがありありと伝わってきて、しんとした気持ちになった。
「この街道」というのは、
「都(神戸・福原)から鵯越(ひよどりごえ)を経て、三木方面や姫路方面への主要街道」
である(現在の神戸電鉄粟生線にほぼ沿っていると思われる)。
秀吉が播磨を平定したあと、当初は三木城を居城にするつもりだったのが、黒田官兵衛の進言を受けて、結局は姫路を拠点とした、という話を聞いて、不思議な気もしていたが、こうして木津まで足を運んでみると、三木も交通の要衝の一つであったことが理解できた。
案内板より
「木津フレクシャーと呼ばれている断層の一部の礫岩壁に、縦32cm、横2.2mのくぼみを彫り、中央に阿弥陀如来坐像、左右に三体ずつの地蔵菩薩を浮き彫りにしています。「丁亥 石大工兵衛 文正二天(1467年―室町中期)」と刻銘が残っており、神戸付近で規模の大きいものでは、この磨崖仏と太山寺の不動明王の磨崖仏の2カ所だけです」
太山寺にもあるのかー、こちらも見に行きたい。
阿弥陀如来坐像のお顔は、残念ながら、落ちている
見えづらいけど、「石大工」「文正二」の文字が認められる
顕宗仁賢神社は、今回は行かなかったが、『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』にも
その物語が記される、顕宗と仁賢の兄弟の天皇をまつる古いお宮だそうだ